迫りくる暗殺の魔の手
1959年78歳、昨年9月にカリフォルニアで休暇を過ごして以来ゲルソンの体調は芳しくありません。
いつまで経っても体調が戻らないことに対し『これは単に高齢からくるものではないかも知れない!』と考え始めたゲルソンは24時間の尿検査を実施することにしました。
そこで驚愕の事実を知らされることとなります。
ゲルソンの体内から出てくるはずもない『砒素』が検出されたのです。
この時初めてゲルソンは『何者かに毒を盛られた』ことに気づき、さらにレントゲンを見ると肺に穴が空いていてゲルソンは弱々しく呟きました。
『これ以上生きながらえることはもはやできそうにない。二冊目の本を書き終えることはもうできないかも知れない・・・』と。
偉大なる孤高のドクターの最期
同年3月8日、大粒の汗を額にかきながら、息苦しそうに『お母さんを頼んだぞ!』と三女のシャルロッテに言った言葉がゲルソンの最後の言葉です。
『人は時折本当の真理につまずくことがある。それなのに殆どの人はそのまま起き上がると何事もなかったかのように先を急ぐように行ってしまう!とチャーチルは名言したが、私はそのような間違いをしたくない・・・。』
~ Dr.マックスゲルソン ~
アルバートシュバイツァーからの手紙
ゲルソンの訃報を知ったシュバイツァー博士は、ゲルソン夫人に一通の手紙を送りました。
『ゲルソン博士は私の最も親しい友人でした。もし彼に妻の命を助けてもらわなければ幼い娘を育てることはできなかったでしょう。妻は彼に対する感謝を一時も忘れたことはありません。
彼の死は全世界に影響を与えることになるはずです。
彼は医学史上最も優れた医学の天才です。
彼にはどんなものにも惑わされず事の本質を見抜く天性の鋭い感性があり、病気の原因と身体が治癒していく過程において深く鋭い洞察力を持ちながら新たな医学の道を切り開きました。それにもかかわらず、彼を敵視する政治的圧力によって教壇に立ったり研究に携わったりすることができなかったのです。これは大変残念なことです。
本来ならば、彼はドイツの有数な権威ある大学の教授としての地位を確立し、彼独自の知識と考え方を後世に伝えることでさらなる医学の発展に貢献できたはずです。
無理やり祖国を追われ、難民移民としての辛く厳しい運命を背負わされ、それでも彼は戦い続けたのです。彼を良く知る者として、また彼の良き理解者として、彼がいかに多くの妨害を受けて打ちのめされそうになっても戦い続けてきたことを私は知っています。
勇敢に障害を乗り越えていく彼の姿を見て私は心から尊敬していました。
彼が生み出したアイデアは様々なところで取り入れられているにもかかわらず、彼の名はどこにも出てきません。
あれほどの逆境に置かれれば、誰しも成し遂げることは不可能と思えるようなことさえ彼は成し遂げてきたのです。
そんな彼が残した遺産はまさに注目に値するものであり、その偉大なる功績は必ず将来世の中で認められることになるでしょう。
彼の知識と着眼点が間違っていなかったことは、私たちのように彼に治してもらった患者たちが既に実証しています。
私のように彼のことを良く知り、彼の価値を認めて大切に思っている者たちは皆、同じこの地上に生きてきて、あらゆる逆境と戦い続けてきた医学の天才の死を心から惜しんでいます。
~ アルバートシュバイツァー ~
死んでなお生き続けるDr.マックスゲルソン
没後2ヶ月経った5月12日、権威あるニューヨーク科学アカデミーより『アカデミーの栄誉ある会員としてゲルソン博士をお迎えしたい』旨の招待状が夫人の元に届けられました。ゲルソンはこの時初めてアメリカの医療体制に受け入れられることとなります。
また、2005年カナダで開催された『正常生体分子医学会』において、これまでの深い貢献を讃えられ2005年度の筆頭者として正常生体分子医学会の殿堂入りを果たします。
前年度はノーベル賞を二度受賞したライナスポーリング博士が筆頭者として殿堂入りを果たしています。
16回に分けてDr.マックスゲルソンをご紹介して参りましたが、今あらためて感じます。私たちが自分の目で見ているこの世界は、本当の世界とは違う世界なのかも知れないと・・・。