ヒトラー政権からドイツに戻ってくるようにという要請
明け方の4時近く、ゲルソンの乗った列車がヒトラーのユダヤ人狩りに遭います。列車から降ろされたユダヤ人たちがホームに集められ、兵士たちに連行されていく恐ろしい光景をゲルソンは窓越しから身を潜めるようにして眺め、医者として頂点に達する寸前に起こった不運と恐怖心に泣き伏せながらそのままウィーンに逃亡していくことになります。
ゲルソンの兄弟姉妹は一人残らずナチスの強制収容所で息絶えてしまいましたが、ゲルソン夫人と3人の娘さんたちはウィーンに逃げることに成功しゲルソンと涙の再会を果たします。既にヨーロッパで有名になっていたゲルソンは、医者として働く場所を難なく確保することができたものの、ヒトラー政権から『君が必要だ!ドイツに戻ってくるように!』という要請から逃れるようにして家族全員での逃亡生活を始めます。
1934年53歳、ウィーンで『肺結核のための栄養療法』という本を出版し、この本はシュバイツァー博士からも絶賛され、アフリカにやって来た医者たちの必須科目のテキストとして博士が使ったことでも有名になりました。
1935年54歳、ウィーンを逃れてパリに移住し『ゲルソンサナトリウム』を開いて結核患者の治療を始めます。ここで完治した患者たちをきっかけにして他のサナトリウムの医者たちが見学にやって来ました。ところが実際に結核患者たちが完治しているのを目の当たりにした医者からは『仮にうちのサナトリウムでこの療法を行えば患者たちは治っていくでしょう。その代わり私たちの生活が脅かされることになるのでうちのサナトリウムでは行えない。』といった信じがたい感想が返ってきてゲルソンを落胆させます。
1936年55歳、パリを逃れてイギリスに移住しセントジョージ病院で勤務。
1937年56歳、イギリスを逃れてアメリカに移住しアメリカ医師免許を取得するために『移民のための英語教室』に小学生と一緒に英語を学び始めました。
1938年57歳、アメリカ医師免許を取得しNYマンハッタンのパークアベニューにゲルソンクリニックを開業します。
そのクリニックにシュバイツァー博士の娘のレーナちゃんが夫人とともにゲルソンを頼ってやって来ました。彼女は重度の皮膚病を患い、ヨーロッパ中の専門医に診てもらったのですが治りませんでした。ゲルソンが医学文献を調べ漁った結果、医学史上たった4、5回しか記載のない病気であることが分かりましたが、その原因は分からず病名すら付いていない稀有なもので当然治療法などもありませんでした。また、ゲルソンにはそれが感染症であるかどうかも判断を下すことはできませんでした。